セリ市で、彼に手を挙げる馬主は誰もいなかった。 良血ではあるが、左前脚が外向している。その一点が嫌われたのだ。 「売れ残り」となった彼を見出したのは、名伯楽・伊藤修司調教師だった。 「脚元は弱いが、歩く姿が良い」。その慧眼がなければ、平成を代表するステイヤーは歴史に埋もれていたかもしれない。
天才との邂逅
デビュー後も脚部不安はつきまとった。常に「ガラスの脚」を抱えながらの調整。 そんな彼が出会ったのが、デビュー2年目の若き天才・武豊だった。 人馬の波長は奇跡的に合った。 武豊はクリークの知性と操作性の高さに惚れ込み、クリークは若武者の指示に全霊で応えた。 1988年菊花賞。出走すら危ぶまれた状況から掴み取った栄冠は、単なる1勝以上の意味を持っていた。 それは、武豊が「本物の天才」へと脱皮し、スーパークリークが「最強のパートナー」として覚醒した瞬間だった。
憎らしいほどの強さ
古馬となってからの彼は、まさに円熟の極みにあった。 天皇賞(秋)、天皇賞(春)と盾を連覇し、オグリキャップやイナリワンといった強敵たちと渡り合う。 特にオグリキャップ人気が社会現象となる中で、冷静沈着にその進路を塞ぎ、勝利をさらっていく彼の姿は、 多くのファンにとって「憎らしいほどの強さ」として映った。 しかし、そのヒール役としての強さがあったからこそ、平成三強の物語は深みを増したのである。 彼は決して派手なパフォーマンスを見せる馬ではなかったが、 「勝つために必要なこと」を誰よりも理解している知的なアスリートだった。
「オグリがいなければクリークはヒーローだったかもしれない。
だが、クリークがいなければオグリは伝説にならなかった」
引退後、彼は静かに余生を過ごし、2010年に25歳でこの世を去った。 それは奇しくも、ライバル・オグリキャップが旅立った約2ヶ月後のことだった。 天国でも彼らは競い合っているのだろうか。 武豊を育て、オグリキャップと競い、平成の競馬界を支えた名優。 スーパークリークという名は、大河のような雄大さとともに、永遠に語り継がれていく。





