カツラギエース:世界を射抜いた孤高のエース
Katsuragi Ace

The PioneerKatsuragi Ace

「世界」という壁を、
最初に打ち砕いた逃亡者。

PROFILE

生誕1980.04.24
調教師土門一美 (栗東)
主戦騎手西浦勝一
通算成績22戦10勝 [10-3-1-8]
主な勝鞍ジャパンカップ (G1)
宝塚記念 (G1)
毎日王冠 (G2)、サンケイ大阪杯 (G2)
京都新聞杯、NHK杯、京阪杯

PEDIGREE

FATHER
ボイズィーボーイ
(英) 1965
Game Warden
Gwyn
×
MOTHER
タニノベンチャ
(日) 1971
ヴェンチア
アベイブリッジ

父は英国産のマイラー、母は名門プリティーポリー系。決してエリートではない血筋ながら、日高の競り市で710万円という控えめな価格で取引された馬が、後に日本競馬の歴史を塗り替えることとなった。

CAREER RECORD

全レース成績

TOTAL: 22 RUNS10 - 3 - 1 - 8
DATERACE NAMECOURSE / DIST.JOCKEYRESULT
1984.12.23有馬記念 (GI)中山 / 芝2500m西浦勝一2nd
1984.11.25ジャパンカップ (GI)東京 / 芝2400m西浦勝一1st
1984.10.28天皇賞・秋 (GI)東京 / 芝2000m西浦勝一5th
1984.10.07毎日王冠 (GII)東京 / 芝1800m西浦勝一1st
1984.06.03宝塚記念 (GI)阪神 / 芝2200m西浦勝一1st
1984.04.01サンケイ大阪杯 (GII)阪神 / 芝2000m西浦勝一1st
1983.11.13菊花賞 (GI)京都 / 芝3000m西浦勝一20th
1983.10.23京都新聞杯京都 / 芝2000m西浦勝一1st
1983.05.29東京優駿 (GI)東京 / 芝2400m崎山博樹6th
1982.09.193歳新馬阪神 / 芝1200m崎山博樹1st
CAREER HIGHLIGHTS

エースの覚醒

01
Japan Cup
5-10
1984.11.25 / 東京 2400m

THE OVERTAKE

第4回 ジャパンカップ

10番人気。誰もがシンボリルドルフとミスターシービーの「二強」を疑わなかった。しかし、西浦勝一は迷わず逃げた。向こう正面で15馬身以上の差。誰もが「捕まる」と思ったその逃走劇は、直線の急坂を越えても終わらなかった。日本馬が初めて、世界の強豪と並び、追い抜いた歴史的瞬間。

TIME
2:26.3
POPULARITY
10th
02
Mainichi Okan
9
1984.10.07 / 東京 1800m

PRIDE OF ACE

第35回 毎日王冠

前年の三冠馬ミスターシービーとの真っ向勝負。直線で襲いかかるシービーの豪脚を、アタマ差で凌ぎ切った。この勝利は、単なる一走の結果ではない。彼が「三冠馬の脇役」から、現役最強の一角へと進化したことを日本中に知らしめた戦いだった。

1着 カツラギエース2着 ミスターシービー
03
Takarazuka Kinen
7-10
1984.06.03 / 阪神 2200m

THE FIRST GI

第25回 宝塚記念

悲願のGI制覇。逃げて、二の脚で後続を突き放す彼本来のスタイルが完成を見た。勝ちタイム2分12秒4は、当時のレコードを塗り替える驚異的な数字。中距離戦線において「カツラギエースに逃げられたら終わりだ」という恐怖を刻みつけた圧勝劇。

TIME
2:12.4
RESULT
RECORD
04
Kyoto Shimbun Hai
11
1983.10.23 / 京都 2000m

TURNING POINT

第31回 京都新聞杯

西浦勝一騎手との初コンビ。ダービー馬ミスターシービーを相手に、直線だけで6馬身突き放す衝撃の逃亡劇。菊花賞を前に、「もう一つの主役」が誕生した瞬間だった。後のジャパンカップへと繋がる、西浦・カツラギの名コンビの出発点。

1着 カツラギエース4着 ミスターシービー
DATA ANALYTICS

不評を覆した
歴史的逃走劇

1984年のジャパンカップ。外国招待馬の圧倒的優位が囁かれる中、彼は単勝10番人気、オッズ40.6倍という低評価を突きつけられていた。しかし、西浦騎手との人馬一体の逃げは、計算し尽くされたスローペース。誰もが「いつか捕まる」と信じて疑わなかった残り200m、彼は二の脚を使って後続を突き放した。日本馬によるJC初制覇という奇跡は、緻密な戦略が生んだ必然だった。

40.6

PAYOFF ODDS

単勝 40.6倍 (10番人気)

※1984 ジャパンカップ

WINNING PROBABILITY

予想を裏切る完勝
PRE-RACE POPULARITY10th
LOWER RANK
RACE RESULT1st
THE CHAMPION
JAPANESE PRIDE1st WIN
HISTORY MADE
日本馬初のJC制覇
KATSURAGI ACE
してやったり。これだけは言っておく。
この馬は本当に強い馬なんだ。
主戦騎手 西浦勝一
JC勝利後のインタビューより
入厩当初はどこが良いのか分からなかった。
クズ馬を掴まされたと嘆いたこともあったが、
彼は私に最高の景色を見せてくれた。
調教師 土門一美
回顧録より
FAN VOICES

ファンからの声

S

あの日のジャパンカップ、カツラギエースが逃げ切った瞬間、スタンドが一瞬静まり返ったんです。驚きすぎて歓声が遅れてやってきた。日本馬が初めて世界を負かしたあの光景は忘れられません。

M

毎日王冠でミスターシービーを負かした時、本物だと思いました。華やかなシービーに対して、泥臭く粘り強く走るエース。努力が天才を凌駕する瞬間を見せてもらいました。

U

地味な血統で期待されていなかった馬が、三冠馬や世界の強豪をなぎ倒す。その不屈の物語に心を打たれました。彼こそが「日本馬の意地」を見せてくれた先駆者です。

BEHIND THE SCENES

秘蔵エピソード

不遇の時代から世界一へ、エースを支えた絆の物語

01

710万円からの逆転劇

カツラギエースはエリートではなかった。セリ市では買い手がつかず、最終的には710万円という安値で落札された。「1年に1勝してくれれば十分」という低い期待の中でデビューした彼が、後に4億円以上の賞金を稼ぎ出し、世界を驚かせるなど誰が想像しただろうか。見栄えのしない馬体が、走ることで黄金の輝きを放ち始めたのだ。

02

秘密の白いメンコ

ジャパンカップ当日、カツラギエースは真っ白なメンコ(覆面)を装着していた。これは厩務員が土門調教師に内緒で特注したものだった。大歓声の中でも集中できるよう、耳の部分を厚手の革で作った「耳栓」仕様。この小さな工夫が、臆病だったエースに「孤独な逃亡者」として突き進む勇気を与えたのである。

Mr. C.B.
THE ARCHRIVAL
DESTINY

MR. C.B.

ミスターシービー

華やかな名門血統、天をも穿つ豪脚、そして史上三頭目の三冠馬。ミスターシービーは常に太陽だった。

カツラギエースは、その輝かしい太陽が作る「影」だったのかもしれない。クラシックでは一度も勝てず、菊花賞では20着という屈辱を味わった。しかし、エースは諦めなかった。秋の東京で、ジャパンカップで、彼は最強の太陽を背後に沈め、自らが光り輝くエースであることを証明した。

宿命のライバルがいたからこそ、逃亡者は誰よりも速く、遠くへ駆け抜けることができたのだ。

1984JAPAN CUP
1stカツラギエース
vs
10thミスターシービー

世界を射抜いたエース

世界を射抜いたエース

日本競馬が、まだ「世界の二軍」と呼ばれていた時代。カツラギエースという一頭の馬が、その固定観念を根底から覆した。彼は決して選ばれたエリートではなかった。小規模牧場に生まれ、セリ市で安値で取引され、デビュー前は調教助手から「クズ馬」とまで揶揄された。しかし、その内側に秘めた闘志は、誰よりも熱く燃えていた。

三冠馬の影に隠れて

同期には「世紀のアイドル」ミスターシービーがいた。最後方から全てを飲み込むような豪脚で三冠を制したシービーに対し、カツラギエースは善戦しながらも決定打を欠く、いわば「脇役」の座に甘んじていた。菊花賞での20着大敗。その屈辱こそが、彼を真のエースへと変貌させるガソリンとなった。陣営は彼の気性の激しさを逆手に取り、「逃げ」という究極の戦法を見出す。西浦勝一騎手との出会いが、彼に翼を与えた。

府中を静まり返らせた逃走

1984年11月25日。ジャパンカップのゲートが開いた瞬間、カツラギエースは迷わず先頭に立った。10番人気。誰も彼が勝つとは思っていなかった。向こう正面、独走するエースを眺めながら、観客も、そして他国の名手たちも「どうせ最後に止まる」と高を括っていた。しかし、西浦騎手の手綱は魔法のようにエースをリラックスさせ、力を温存させていた。直線の坂。世界中の強豪が追いすがってくる中、エースはもう一度加速した。その脚色は衰えるどころか、さらに鋭さを増していく。

日本競馬の夜明け

ゴールを駆け抜けた瞬間、東京競馬場を支配したのは歓声ではなく、深い静寂だった。何が起きたのか。日本馬が、あの「世界の壁」を初めて打ち破ったのだ。その事実に気づいた時、静寂は地鳴りのような咆哮へと変わった。彼が示したのは、血統や価格ではない、純粋な闘志と戦略が世界を制するという真実だった。カツラギエース。彼は単なる勝利者ではない。日本競馬が世界へ向かって羽ばたくための、最初の、そして最高の先駆者となったのである。

「彼は、私たち日本人に勇気を教えてくれた。世界と戦えるという希望を。」
――ある競馬記者の手記より

2000年、彼は21歳でその生涯を閉じた。しかし、彼が東京競馬場の直線で見せたあの孤独な、そして誇り高い背中は、今もなお多くの競馬ファンの心の中に、永遠の「エース」として走り続けている。