「無敗」。それは甘美な響きであると同時に、あまりにも重い十字架でもある。 デアリングタクトは、その重圧を小さな身体で受け止め、跳ね返し続けた。 2020年、コロナ禍で歓声の消えた競馬場を、彼女だけが鮮烈な光を放って駆け抜けた。 史上初の無敗での牝馬三冠達成。誰もが彼女の未来に栄光だけが待っていると信じていた。
初めて知った敗北、そして世界へ
しかし、競馬の神様は試練を与える。 世紀の対決となったジャパンカップでの初めての敗北。 それでも彼女は下を向かなかった。翌年、香港の地で世界の強豪と渡り合った。 3着。勝利には届かなかったが、松山騎手と共に世界に挑んだその姿は、日本のファンの誇りだった。 だが、帰国後に待っていたのは「右前肢繋靭帯炎」という競走馬にとって致命的になりかねない大怪我だった。
奇跡の復活と、引き際の美学
9ヶ月以上に及ぶ過酷なリハビリ。 「もう走れないかもしれない」。そんな不安の中で、陣営は彼女の回復を信じ続けた。 そして2022年5月、ヴィクトリアマイルで彼女はターフに帰ってきた。 かつてのような圧倒的な末脚は影を潜めていたかもしれない。 それでも、泥臭く、懸命に、ゴールを目指して走る姿に、ファンは無敗時代以上の感動を覚えた。 勝つことだけが全てではない。何度倒れても立ち上がる強さを、彼女は教えてくれた。
母として紡ぐ、新たな夢
2023年、彼女は静かに競走生活に別れを告げた。 通算13戦5勝。決して多い出走数ではない。しかし、その中身の濃さは計り知れない。 無敗の栄光、怪我の苦悩、復活の執念。 その全てを経験した彼女は今、生まれ故郷の北海道で母となった。 エピファネイアの血を受け継ぎ、サンデーサイレンスの奇跡を宿した彼女の子供たちが、 いつかまたターフで新しい伝説を作り出すだろう。
「ありがとう、デアリングタクト。君の背中は、僕にとって最高の教室でした」
――松山弘平
日高の小さな牧場から生まれた奇跡の少女は、大人になり、母となり、永遠の伝説となった。 私たちは忘れない。 閉塞感に包まれた2020年の日本に、希望という名の衝撃を与えてくれた、あの青い勝負服の少女を。



