「サクラバクシンオー」。その名は、30年の時を経た今なお、日本の短距離界において不滅の輝きを放っている。1200メートルという極限の世界で、彼が見せた走りは単なる「速さ」の追求ではなかった。それは、脆く繊細な脚元という宿命を抱えながら、一瞬の閃光に命を燃やした、美しくも峻烈な魂の記録である。
挫折から見出した「一矢」
当初、陣営は彼にクラシックの夢を託した。しかし、皐月賞トライアルでの大敗。父サクラユタカオー譲りの天賦のスピードは、距離が延びるほどに牙を剥き、自らを苦しめた。「この馬は、短い距離でしか生きられない」。その残酷なまでの適性を突きつけられた時、境勝太郎調教師は迷わず舵を切った。日本競馬にまだ「スプリンター」という言葉が定着していなかった時代、彼は専門職としての道を歩み始めた。
愛と哀しみのスプリント
彼のキャリアを象徴するのは、1993年のスプリンターズSだろう。サクラ軍団の総帥であり、小島太騎手が父と慕った全演植氏の死。その悲しみの中で、バクシンオーはかつてない走りを見せた。当時の日本レコード。それはまるで、亡きオーナーへの弔砲のようだった。ゴール板を過ぎた後、小島騎手の肩が震えていた。馬と人、そしてオーナー。三者の絆が結実したあの瞬間、バクシンオーは単なる速い馬から、ファンの心に深く刻まれる「名馬」へと昇華した。
永遠に続く、驀進の記憶
最後のレースとなった1994年のスプリンターズSで見せた、1分7秒1という数字。それは21世紀の競馬においてもトップレベルとして通用する、時代を先取りしすぎた究極の到達点だった。引退後、彼は種牡馬としても成功を収め、その血は孫のキタサンブラックへと受け継がれ、中長距離の舞台をも制圧した。
「彼は、日本競馬にスピードの価値を教えてくれた。私にとっても、人生最高のパートナーだった」
――小島太
私たちは今、ターフを駆け抜ける馬たちの向こう側に、時折彼の面影を見る。ゲートが開いた瞬間の爆発力、コーナーを回る際のしなやかさ。かつて中山の急坂を、阪神の直線を、文字通り「驀進」したあの鹿毛の馬体。サクラバクシンオーが残した「光速の軌跡」は、これからも日本競馬が続く限り、決して色褪せることはない。




